現在も受け継がれる笹島建設の職人魂は、「黒四」で生まれた。

「世紀の大事業」として歴史に刻まれた黒部川第四発電所工事・「黒四」こそ、笹島建設の原点です。
昭和31年に受注した当時、弊社は熊谷組の下請けの「熊谷組笹島班」でした。
約60年がたった今でも、この世紀の大事業は弊社の誇りです。
建設史上に名を残したこの工事は、かつてない困難と試練を課すものでした。

黒部川第四発電所工事

黒部川の電源開発は、大正末期まで遡ります。しかし、渓谷の奥地にある黒四地点の開発は、険しい気候と地形から遅々として進んでいませんでした。そうした中、戦後の復興に伴って発生した深刻な電力不足を解消するために、「黒部川第四発電所工事」が本格始動したのです。

黒部川第四発電所工事

大町2号トンネル

黒四開発の問題となったのは、資材や機械類の運搬方法でした。まさに、この輸送ルートを確保できるかどうかで、黒四開発工事の成否が決まります。笹島建設は、その工事の中でも最も難しいと言われていた「大町2号トンネル」の建設を担当することとなったのです。

大町2号トンネル

突破セヨ

笹島の始まり ~黒部の太陽~

24時間体制の 過酷な労働環境

大町2号トンネル工事は、内容も納期も非常に厳しい条件でした。
黒四地点周辺は、春でも雪が積もっている場所です。労働環境は“過酷”という表現以外に見つかりません。それでも、決められた工期を守るために、作業は24時間体制で1分1秒も休むことなく続けられました。

24時間体制の 過酷な労働環境

恐るべき脅威 破砕帯との遭遇

掘削が順調に進んでいたある日、状況は一変します。
破砕帯に遭遇したのです。
突然、毎秒600リットルもの冷たい地下水と土砂が、坑内を襲いました。
坑内は瞬く間に川と化し、掘削作業の続行は不可能になりました。

恐るべき脅威 破砕帯との遭遇

全身全霊を傾けた、執念の掘削

「掘進するには、水を抜かなければならない」
――その一心で、破砕帯との死闘が始まりました。

持てるすべての英知を結集し、考えうるあらゆる方法で掘削を試みます。
しかし、「少しでも掘進する」という気持ちをあざ笑うかのように、
冷たく凄まじい水が阻みました。
それでも、総員、身の危険を顧みず、果敢に破砕帯に挑み続けたのです。

全身全霊を傾けた、執念の掘削

掘削を可能としたのは、笹島班長の勘

現場が決死の覚悟で闘う一方、対策本部ではルートの変更も示唆されていました。「冬になれば掘れる」。現場の陣頭指揮を執る笹島信義班長の対策本部での発言に、委員会の有識者は疑問を呈します。しかし、笹島班長の勘に基づくこの言葉は、決して間違いではありませんでした。秋が近づくと、水抜きの作業に黒部の寒さが加わり、湧水が減少したのです。そして、笹島班長の発言通り、掘削が再開しました。

掘削を可能としたのは、笹島班長の勘

破砕帯突破、トンネル開通へ

破砕帯に遭遇してから約7ヶ月後、これまでの苦労が結実する瞬間が訪れました。ついに、破砕帯を突破したのです。坑内は歓声で包まれました。喜びもつかの間、滞っていた掘削作業を急ピッチで進めます。徐々に地質が良化し、掘削の日進新記録を打ち出すほど、スピードは上がりました。

そして、昭和33年に大町2号トンネルが開通。大量の資材や機械を積んだトラックがトンネルを通り、黒部ダムの建設が本格的に始まったのです。

破砕帯突破、トンネル開通へ

黒四工事を成し遂げた自信

「笹島建設の歴史上、最も危険で、 最も苦労し、最高に嬉しかった現場」

「笹島建設の歴史上、最も危険で、 最も苦労し、最高に嬉しかった現場」

これは、実際に大町2号トンネル工事の指揮を執っていた笹島信義の言葉です。

「世紀の大事業」から約60年が経とうとする今、当時の現場で働いていた者はとうに現役を退きました。
しかし、笹島建設の根幹を成すものは何一つ変わることなく、新しい世代に脈々と受け継がれています。

  • 黒四工事を成し遂げた自信
  • 不撓不屈の精神
  • 新しいことに挑戦する勇気
  • 不可能を可能に変える力

黒四・大町2号トンネルの難工事をやり抜いた事実は、「どのような工事でもできる」
という自信に変わり、「絶対に諦めない」という強い気持ちを生みました。
そして、「新しい工法や技術を果敢に取り入れる勇気」と、「不可能でも可能にする不思議な力」を、
私たちに与えてくれているのです。

「黒四」を胸に、 今日も笹島建設は トンネルと向き合う。

「黒四」を胸に、 今日も笹島建設は トンネルと向き合う。